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肥沼信次(医師)の出身高校と大学は?ヴリーツェンでの感動エピソードを紹介!

   

第二次世界大戦中のドイツで医師として
活躍した肥沼信次
(こえぬま のぶつぐ)さん。

ドイツのヴリーツェン市の名誉市民として
今も称えられています。

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ドイツへ留学

東京・八王子で生まれた肥沼さん。

父の梅三郎氏も外科医でした。

東京府立二中(現・都立立川高校)を卒業し
日本医科大学へ進学。

立川高校は今でも優秀ですが、
かなりの秀才だったみたいですね。

日本医科大を卒業後、
東京帝国大学放射線研究室へ。

そして1937年にドイツのベルリン大学へ
留学し、医学部放射線研究室に学びます。

当時、医学といえばドイツというくらいに
ドイツ医療は世界では権威がありましたから
肥沼さんにとってもまさに憧れの地だった
のではないでしょうか。

ドイツに来ても、やはり優秀だった
肥沼さんは東洋人として初めて
同大医学部の教授資格を取得。

当時、人種差別などもあったと思いますが、
そこで認められるとはすごいですねぇ。

もし戦争がなければ医学界でなんらかの
功績を挙げられたかもしれませんね。

しかし、時代は第二次世界大戦に
まさに突入しようとしていました。

ナチスが台頭し、その思想に沿わない
人々は政治家であれ、学者であれ
職を追われていきました。

肥沼さんもナチスへの宣誓書を
書かされますが、その中で
「自分は純粋な日本人だ」と
堂々と宣言。

当時、日本とドイツは同盟国だったとはいえ
平気で強硬な手段をとるナチスにも毅然たる
態度をとるとは、まさに日本男児の鑑ですね。

医療活動に従事

1945年、いよいよドイツの敗戦濃厚となると
在独日本大使館から一斉に帰国命令が出され
ましたが、肥沼さんは帰国せず。

一人娘を抱えた未亡人・シュナイダーさん
とともに疎開する道を選びます。

詳しい情報はないですが、肥沼さんにとって
シュナイダーさんが特別な人だったのかも
しれませんね。

そうしてドイツのエバースバルデに
疎開しますが、その近くのヴリーツェンで
発疹チフスが大流行していました。

これはシラミによって媒介される病気で
第一次世界大戦ではこの病に罹って
数百万人が亡くなっていました。

戦争で徴兵されたこともあって、
医師が一人もいなかったヴリーツェン。

そこで肥沼さんに声が掛かります。

衛生状態も悪く、医療品も不足していて
ふつうの医師では誰も行きたがらないところ
でしたが、肥沼さんは迷わず赴任。

やはり“漢”ですね。

肥沼さんは患者の手を取り、
励ましながら診療を行ったのだとか。

そして、不足する医療品や食料を
汽車で数時間かけて調達して回った上、
それを惜しみなく患者に与えていたのだ
そうです。

大学で教授の学位まで与えられたほどの
優秀な医学者の行動とは思えない、
アグレッシブさ。

その甲斐あって多くの人々が病から
快方に向かったのだそうです。

そんな中、診療を終えると、服を着たまま
ソファーに倒れこむようなハードな日々を
送っていた肥沼さんもついに自らが
発疹チフスに感染。

しかし治療薬を拒み、「患者に使うように」
と看護婦たちには指示していたのだ
そうです。

自らを省みない、まさに聖人の域ですね。

そして、「桜が見たい」という言葉を遺して
シュナイダーさんや看護婦に見守られる中、
37歳でこの世を去ります。

あまりにも早すぎる死ですね。

功績を顕彰

その死後、肥沼さんの遺体は
ヴリーツェン市内に埋葬されました。

大戦後の冷戦時代、監視の目がきつかった
そうですが、肥沼さんの墓に供えられる花は
絶えることがなかったのだとか。

それだけ多くの命が救われ、
皆、心から深く感謝していたんでしょうね。

冷戦が終わり、ドイツ統一後の1992年、
肥沼さんにヴリーツェンの
名誉市民の称号を授与。

そして、それまで氏名しか分かって
いなかった肥沼さんについての調査も
行われ、日本にいた家族で弟の栄治さんが
見つかります。

その栄治さんから桜の木が贈られて今では
ヴリーツェン市内に桜が咲いているのが
見られるのそうです。

その桜は肥沼さんの墓所にも
植えられました。

肥沼さんもきっと喜んでいるでしょうね。

ヴリーツェンでは広場に記念碑も建てられ、
「肥沼記念杯」という柔道大会も開かれる
ようになったのだとか。

また学校の授業でもその偉業を
教えてもいるのだそうです。

海外でこれだけ称えられる
日本人がいることに感動しますね。

異国の地でわが身を捨てて
医療活動に従事した肥沼さん。

同じ日本人として誇りに思うのとともに
心からその功績を称えたいですね。

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