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伊奈忠次の子孫と墓所について!人生が波乱万丈すぎる!

   

江戸幕府から関東代官頭に任じられていた
伊奈忠次(いな ただつぐ)。

関東各地で測量や河川改修などの事業を
行ったまさに大功労者でした。

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子孫も関東郡代に

忠次は事業の指揮者としても非常な功労者
でしたが、土地の領民からも大変
慕われた人物だったのだとか。

「代官」という身分からして、時代劇の
「悪代官」を連想してしまいますが、
実際の代官職は大変な激務で、領民のため
身を粉にして働いた人がほとんどだったのだ
そうです。

忠次の功績として特に河川改修などの事業が
有名ですが、桑、麻、楮(こうぞ)の
栽培方法を伝授したり、炭焼きや養蚕、製塩
などを奨励するなど農民のための施策にも
積極的に取り組みました。

これは農民たちに人望があったことも
うなずけますね。

相当な激務の中、61歳でこの世を去った
忠次は埼玉県鴻巣市の勝願寺に
埋葬されました。

その後、伊奈氏は忠次の次男である
忠治が家督を継ぎました。

この忠治も父と早世した兄の跡を継いで
河川改修について非常に力を注ぎ、
利根川東遷事業といった大きな功績を
残しました。

こうして伊奈氏は代々12代に渡って
関東郡代の役職を担い、治水事業に
関わることとなります。

不正があったり跡継ぎ問題があったりすると
すぐに役職を取り上げられる時代にあって、
伊奈氏が12代にも渡ってその地位を
継承できたのは忠次から続く善政の
賜物でしょうね。

ちなみに伊奈家は現代まで存続しており、
子孫の方がいらっしゃいます。

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半生が波乱万丈!

徳川家康からも絶大な信頼を得ていたという
忠次ですが、その半生はまったく違うもの
でした。

もともと三河国で家康の家臣だった伊奈氏
ですが、三河一向一揆に加わったことで
父とともに忠次は三河を追放されます。

放浪生活を余儀なくされた忠次は食べるため
雑役にも従事し、そこで土木技術を学んだ
とも言われています。

この経験がのちの功績の元に
なったんですね。

その後、織田・徳川と武田が戦った
長篠の戦いに従軍し、軍功を上げたことで
ふたたび徳川家に帰参することとなります。

こうして今度は家康の嫡男・信康に仕える
こととなりますが、なんと信康が武田との
内通の罪で信長に自刃させられて
しまいます。

またもや浪人状態となった忠次。

当時30歳でしたから、その半生はまさに
流転の人生だったんですね。

その後、大阪・堺に滞在していた
忠次でしたが、そんなときに
あの本能寺の変が勃発。

ちょうど堺に来ていた家康を本国へ
脱出させるための手助け(伊賀越え)
に忠次が貢献。

ふたたび家康の元に帰参することを
許されたのでした。

以降は代官としてメキメキと
頭角を現すに至っています。

浪人になる憂き目に遭い続けながら
主君を救う千載一遇のチャンスを
掴んだのは神仏の導きでしょうか。

これを境として一気に出世街道を
駆け上がっていった感じですね。

その後、家康が豊臣秀吉によって当時はまだ
寒村だった江戸に移封させられる際も、
家臣団が憤慨する中、忠次だけが積極的に
江戸入りをすすめたと言われています。

江戸城、今の皇居から鯨が潮を吹いている
姿が見えたというくらいに、今とは似ても
似つかない姿の江戸の地で忠次は地政学的な
優位を見ていたんでしょうか。

だとしたらすごい先見性ですね。

茨城県水戸市には忠次の銅像が建てられ、
息子の忠治も銅像のほか、つくば市内の
伊奈神社に祀られるほどの尊崇を
集めました。

歴史上では戦国武将や時の権力者にしか
スポットが当たりませんが、今の関東圏の
生活にも恩恵を残すほどの事業をやり遂げた
忠治やその一族。

ぜひ、教科書にも載せてその功績を
永く語り継いでもらたいですね。

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