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藤堂高虎の子孫と墓所について!子供は?立身出世っぷりがすごい!

   

仕える主君を何度も変えながら立身出世し
最後には大名にまでのし上がった
藤堂高虎(とうどう たかとら)。

徳川家康にも大変、気に入られており、
重臣として仕えました。

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藤堂家について

江戸時代以降、伊勢津藩を治める
大名家として明治まで存続した藤堂家。

幕末には最初、幕府側で戦いましたが、
途中で翻意し、倒幕側に寝返り。

この裏切りを見て幕府側は、主君を何度も
変えた高祖・高虎の教えをよく守っていると
揶揄したのだとか。

結果的に勝ち組になれたんですから、
選択としては誤っていなかったと
思いますけどね。

これを境に世間では高虎を
「不忠者」扱いするように
なっていったのだとか。

しかし、足軽から大名にまでなったのは
豊臣秀吉に匹敵する見事な出世っぷり
なんですけどね。

こうして勝ち組になった藤堂家は
明治期には華族となり伯爵位を
与えられています。

そして、現在でも高正さんという方が
宗家の当主でいらっしゃるようです。

また、美人競艇選手として鳴らしている
藤堂里香さんも藤堂家の末裔なのだとか。

高虎以降、かなり分家していますので、
子孫の方は現代でもけっこういらっしゃる
みたいですね。

高虎の死後

高虎は1630年に75歳で死去。

亡くなった際に家臣が遺体を清めた際、
高虎の体は全身傷跡だらけ、指も数本が
欠損していたと伝えられています。

190センチもあった大男だと伝えられて
いますが、やはりここまで出世する
には艱難辛苦を乗り越えてきたことが
窺えますね。

江戸の藤堂藩邸で亡くなり、死後は
上野の寒松院に埋葬されました。

現在は上野動物園の敷地内
となっており、動物慰霊碑の
裏手に墓所が現存します。

死後の家督は嫡男である
高次が継ぎました。

財政再建などに積極的に取り組んだ
そうですが、あまり成果を上げられ
なかったのだとか。

残念ながら歴史に名を残す
名君にはなれなかったんですね。

その後の藩主たちも天災や
失策続きで藩財政はさらに悪化。

そんな中、第10代藩主として
高兌(たかさわ)が分家から着任。

藩政改革に乗り出し、自らが率先して
質素倹約に励みます。

そうして10年後には1000両以上の貯金を
築き上げたのだとか。

すごいストイックな
人物だったんですね。

その高兌の姿を見て家臣たちも
倹約するようになっていったのだとか。

また、緩んだ綱紀を粛正し、
不正を許さない体制に改革。

不当に搾取されてきた領民たちのため
監視体制を強化し、灌漑用水の整備など
にも取り組みました。

それによって領民の生活は安定し、
喜んだ領民たちは年貢以外に240俵の
米を自主的に献上したのだとか。

善政を行った結果でしょうね。

高兌は44歳で病死しますが、闘病中は
領民たちの多くがその平癒を願って
神社仏閣を訪れたのだとか。

領民に心から慕われた
まさに名君だったんですね。

立身出世っぷりがすごい

高虎の藤堂家は元々領主の家柄でしたが、
戦国時代に没落し、農民にまで
身を落としていました。

それが江戸時代には高虎によって30万石の
大名家になったわけですから、その出世
の勢いたるや、すごいものがありますね。

浅井長政から始まり、阿閉貞征、磯野員昌、
織田信澄、豊臣家、徳川家と主君を次々に
変えながら出世を果たしました。

これが「裏切り者」「不義理者」などと
言われる所以ですが、しかし裏を返せば
非常に世渡り上手だったとも言えますね。

それに人を見る目も
確かだったんでしょう。

仮に豊臣家に仕え続けていたら完全に
負け組みになっていたわけですからね。

家康の人となりについても
「いずれ天下人になる」と
早くから見込んでいたのだとか。

ただの日和見主義者では
なかったことは確かですね。

人を見極めて、上手に世渡りをする

まさに現代のサラリーマンこそ
藤堂高虎の生き方を見習うべき
なのかもしれませんね。

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