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田尻宗昭(四日市海上保安部)の活躍!石原産業を摘発した正義の人!

      2015/10/01

かつて日本で初めて公害事件を刑事追及した
田尻宗昭(たじり むねあき)さん。

「公害Gメン」なる異名をとった
まさに正義と勇気の人でした。

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海上保安庁へ

田尻さんは福岡市の出身。

宮崎県立宮崎中学校から官立高等商船学校の
航海科へ進学。

卒業後は門司海員養成所教官を経て
海上保安庁に入ります。

海保では巡視船の船長として韓国との
国境警備や東北の北洋で海難救助などに
あたってきました。

時には韓国の警備艇に体当たりするような
激しいつば競り合いもしていたのだとか。

昔も今も海保って大変な仕事を
しているんですね。

四日市に赴任

1968年に四日市海上保安部の
警備救難課長に就任。

禁漁区で漁をする漁師たちを主に
取り締まっていたのだそうです。

ある日、逮捕した年老いた漁師が
取調べ中に「自分たちを捕まえておいて、
海を汚した工場を捕まえないのは
おかしいじゃないか」と訴えてきた
のだそうです。

漁師たちも海が汚れて魚が獲れないから
禁漁区に行かざるを得なかったという
ことだったんですね。

田尻さんはこの言葉に突き動かされて
水産資源保護法を見直してみると、
確かに海へ有害な物を捨ててはならない
と定められています。

しかし、この法律が適用されたことは今まで
ほとんどなく、行政も環境汚染よりも産業の
発展を優先させてきた現状がありました。

田尻さんはこうした大きな不正を見逃して
末端の漁師たちばかりを捕らえてきた
ことを反省。

海を汚す犯人を捕らえる
ことを決意します。

大物獲りへ

田尻さんが調査すると廃油や有害な
化学物質を船で沖に投棄している
実態が判明。

この船をヘリコプターと船によって
見事に拿捕。

一件落着かと思いきや、今度は
工場側が陸を経由して別ルートから
海に投棄していることが判明します。

まるでモグラ叩きですね。

今度は陸上から運搬する
トラックを追跡。

そうして船に荷を積み込んだところで
立ち入り検査をして御用となりました。

これも大きな事件へと発展したそうですが、
事件の関係者は「自分たちよりも直接海に
たれ流ししている工場がある」と証言。

田尻さんたちは再び調査に
乗り出します。

もう芋づる式にどんどん不正が
出てくる感じですね。

そこで浮かび上がってきたのが
日本アエロジルの工場。

一日500トンの塩酸を海に
たれ流していました。

田尻さんたちは同工場へ
捜査に入ります。

そして捜査開始から2ヵ月ほどして、
田尻さんのもとに匿名の電話が
かかってきました。

その内容は「日本アエロジルよりも
石原産業が毎日20万トンの硫酸を
たれ流している」というもの。

文字通りケタ違いの量ですね。

早速、石原産業に「捜査のメス」を
と思いきや、なかなか一筋縄ではいかず。

じつは同社社長の石原宏一郎氏は
二・二六事件の黒幕で、右翼のドン、
さらには政界にも太いパイプを持つ
という大物でした。

いわゆる政財界のフィクサー
というやつですね。

そこに喧嘩を売るとなると
ふつうは尻込みしますよね。

田尻さんもさすがに弱気になったと
後に告白しています。

しかし、部下からの「やりましょう」
という言葉もあって石原産業を相手に
闘うことを決意。

裁判所から令状をもらい、
工場に乗り込んでいきます。

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心を動かした執念の捜査

田尻さんたちはまず同社の守衛室を
押さえ、連絡網を寸断。

工場長の出社を見計らって
ガサ入れを開始したのだそうです。

まるで刑事ドラマみたいですね。

書類関係の押収はスムーズにいったものの
肝心の硫酸の排出量や生産工程については
遅々として捜査が進まず。

まぁ専門家でない限り、広い工場のどこから
硫酸が出ているかなんて分かりませんよね。

田尻さんたちは必死で捜査するものの
時間ばかりが経過し、なんと半年もの
歳月が経過。

まさに絶望的状況だったそうですが、
そんな時、なんと工場の従業員が
そっとアドバイスをくれるように
なったのだそうです。

会社員からすれば断然、自分の会社が
大事でしょうけど、田尻さんたちの
道義を正そうとする必死の姿勢が
それを超越させたんでしょうね。

そうした手助けもあって
一年後には報告書が完成。

工場側も驚くほど精緻な
内容に仕上がったのだとか。

田尻さんたちの執念と最終的には
人情が実らせた成果ですね。

こうして日本の公害事件で
初めて刑事責任を追及。

これは今までこうした問題を見過ごしてきた
行政と産業の癒着構造にも一石を投じる
こととなりました。

その後

赴任してから3年後、
田尻さんは四日市から
転勤となりました。

3年という短い期間で大きな
足跡を残されたんですね。

その後、田尻さんは請われて東京都公害局
(現・環境局)規制部長に就任。

ここでも日本化学工業工場跡地で
六価クロム鉱滓投棄を白日の下に
さらしたほか、NO2訴訟の先頭に
立つなどして活躍。

環境汚染の問題への取り組みが
ライフワークとなったんですね。

田尻さんは1990年に62歳で亡くなられ、
その香典を元手に「田尻宗昭記念基金」
を設立されました。

この基金により2007年までの16年間、
社会的不正義に取り組んだ個人および団体に
対して「田尻賞」が贈られました。

公務員という立場でありながら敢然と
社会の悪と闘った田尻さん。

その勇気と行動力に心からの
敬意を表したいですね。

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