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市瀬朝一さんの苦悩の物語!犯罪被害給付金制度の創設への取り組み

   

横浜に住んでいた市瀬朝一さんは
町工場の経営者でした。

自分の跡を息子さんに継がせるつもりで
いましたが、ある日、その息子さんが
突然の凶刃に倒れてしまいます。

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理不尽な事件

時代は1960年代。

19歳の少年が刃物で市瀬さんの
息子さんを刺殺。

この少年とは特に面識はなく
「ムカついていたから」というだけの
理由で縁もゆかりもない息子さんを
襲ったということでした。

まさに理不尽極まりない蛮行ですね。

息を引き取る直前に息子さんは
「敵をとってくれ」と市瀬さんに
言い残したのだそうです。

無念さが滲み出た言葉ですね。

燃え上がる復讐心

今でも変わりませんが、未成年の
犯罪に甘い日本の法制度。

この少年も5年から10年の懲役刑
という判決となったのだそうです。

大事な息子を失った市瀬さんは
当然、納得できませんでした。

公判では実際に包丁を懐に忍ばせて
復讐を試みたそうですが、
近くにいた新聞記者に止められた
のだそうです。

法治国家において決して許される行為では
ありませんが、息子の無念を晴らしたい
せめてもの親心だったんでしょうね。

そのときの心境を「相手を刺して自分も
腹を切ろうと思った」と語っています。

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救済の道へ

それからというもの、仕事も手につかず
ふさぎこむ毎日を送っていたという
市瀬さん。

損害賠償を請求しようにも
相手に支払い能力がなければ
どうにもならない時代でも
ありました。

しかしある時、ふさいでばかりでは
何も解決されないと思い立ち、国に
救済制度を設けるように訴えることを
決意します。

そうして、自分と同じ身の上の
殺人事件の被害者家族を訪ね歩く
ようになったのだそうです。

今ではあたりまえでも、当時はそうした
行動を起こすだけでも周囲の理解を
得るのも大変だったでしょうね。

被害者家族を訪ねるにあたって
市瀬さんは新聞記事を頼りに
地道に探していたのだそうです。

これも相当な労力だったでしょうね。

やがて市瀬さんが中心となり
「被害者補償制度を促進する会」
が発足。

市瀬さんの元には毎日のように
被害者家族からつらい思いを綴った
手紙が届いたのだそうです。

思いを同じくする人たちが
全国に数多くいたんですね。

国会でも請願

まさに身を粉にして活動に
携わってきた市瀬さん。

しかし、国側は「まず被害者家族の
実態調査が終わってから」という
なんとも歯がゆい回答に
終始していました。

海外ではすでに制度化していた国も
多い中で、こういういかにも
お役所対応なところは日本の嫌な
ところですね。

そうしてついに国会でも
請願を行った市瀬さん。

きっと自分のためというよりも
今苦しんでいる全国の被害者家族、
またこれからの人々のためという
思いだったんでしょうね。

しかし、相当な無理をしたのか
それからしばらくして道半ばで
この世を去ります。

願いは叶わず、その胸中は
いかばかりだったのでしょうか。

映画化と制度化

そんな市瀬さんの活動に心動かされた
のが映画監督の木下惠介氏。

1979年、市瀬さんをモデルにした
映画「衝動殺人 息子よ」
が公開されました。

この映画の反響は大きく、
1980年、ついに犯罪被害者給付金制度が
制定されます。

制度の制定に映画が
大きく貢献したんですね。

市瀬さんの悲願もここにきて
ようやく結実したんですね。

正直、遅すぎた感もありますが、
これで息子さんが残した「敵をとる」
ということを違う形で成し遂げた
と言えるかもしれませんね。

今なお犯罪被害者に十分な配慮が
されていないと言われる日本。

市瀬さんの献身的な活動を無駄に
しないためにも、被害者やその家族こそ
が救われて立ち直れるような法制度や
しくみをこれからも作っていって
もらいたいものですね。

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